推しという言葉への違和感
推しという言葉への違和感
もはやこんな題名の意見は語られつくしたかもしれない。それでも、僕が考える「推し」への違和感をここに残したい。
僕は推しという言葉が苦手である。それでも一般化された言葉であることから、便利に使ってしまっている時がある。なぜ僕がこの言葉を苦手にしているかというと、それは言葉の持つ質量にある。
「推しは」一般化される中で軽く使えるものへと変化した。言葉の変化を見ても、単推しや箱推し、さらには推し変とさまざまな派生をみせいている。一昔前は、オタクが自身の好きという感情を表現する際は「嫁」という言葉を使っていた。「○○は俺の嫁」この言葉は死語になり、今では推しが使われている。オタクが使っていた言葉が一般化するときは、決まって言葉の価値観が変化する。誰しもが使うようになった言葉は便利な一方で、自分自身の感情を載せきれる器ではなくなってしまった。僕の中で推しという言葉は、手軽なインスタント食品のような存在になってしまった。だから僕はこの言葉を使うことを極力避けている。
ここからは僕のエゴである。僕の根本にある推しという言葉への違和感。それは特別な感情を一般化された二文字の名詞で収めたくないということ。自分自身の価値観を変えてくれて、目の前の世界の彩度を上げてくれる、そんな存在が誰しもきっといると思う。その人にとっての特別な存在に対しては、その人の感情・想い・覚悟を乗せた特別な言葉で表現してほしいと思っている。複数の推しがいるという人も、一人ひとりに対する感情は異なるはずだ。それを同じ言葉で一括りにしてはならない。
特別な人に向けた特別な感情を、特別な言葉で誰しもが表現する。そんな言葉に満ち溢れた世界を生きていきたいと願っている。どうか叶いますように。